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2025ふじのくに山城セミナー報告

❶ゲスト 山本篤志さんの基調講演

❶ゲスト 山本篤志さんの基調講演

❷本会理事の繁田禎典さんの発表

❷本会理事の繁田禎典さんの発表

❸本会会長 望月保宏さんの発表

❸本会会長 望月保宏さんの発表

➍本会顧問の乘松稔さんの談話

➍本会顧問の乘松稔さんの談話


 7月20日(日)に研究成果発表会「第30回ふじのくに山城セミナー」を静岡市清水区島崎町の東部勤労者福祉センター(清水テルサ)で開催しました。小田原城郭研究会・大外郭の会の山本篤志さんに河村新城(神奈川県足柄上郡山北町)の調査について基調講演をしていただいたほか、当会理事の繁田禎典さんと会長の望月保宏さんが研究成果を発表。直近の調査結果をレポートする対談も繰り広げ、会員や一般参加者など合わせて約50人が耳を傾けました。最後に名誉会長の水野茂さんが講評。発表の評価と併せ、さらなる調査・研究の推進に向けた激励の言葉もいただきました。なお、繁田さんの発表については機関誌『古城』第67号、望月さんの発表については同じく第68号に関連する論文が掲載されているのでご覧ください。

❶小田原城郭研究会の山本さんは、新東名高速道路の工事に伴う河村新城の発掘調査に令和元年11月から同3年3月まで関わった経験を基に講演。今後の城郭研究は文献、考古、縄張りの三位一体で進める必要があることを強調しました。
 同城は『甲陽軍鑑』に「新条」の名で登場することから後北条氏の3代氏康の頃までには築かれていたと考えられ、国境に近い交通の要衝に位置し、城域は調査区域になった新城と現在は茶畑になっている本城の二つで構成。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原城攻めの際に徳川家康の部隊によって落とされたと考えられています。山城がほぼ全域にかけて発掘調査される例は珍しく、明確な障子堀を検出するなど貴重な発見があったものの、多くの人の目に触れることなく消滅してしまったことを惜しまれていました。
 講演では登城ルートを明らかにするため、縄張図に沿って御厨古道を西から城内へ入る順で各遺構を紹介。発掘作業の休憩時間に撮影した多くの貴重な写真を示し、聴講者が現地を歩いている感覚で理解できるように曲輪や各種の堀、馬出し、土橋などの遺構について説明され、城郭研究者として発掘作業に携わって得た貴重な知見も伝えてくれました。
 調査では北条氏の城の特徴である障子堀や角馬出を確認。全ての堀が障子堀ではなく、構築途中とみられる堀も検出されたと言われました。発掘作業で感じたこととして「作業は命がけ」、「土は掘削よりも運ぶ方が重労働」、「堀は面下げで徐々に掘っていく」、「ローム層は滑って堀底は足を取られる」などを紹介。今後の課題(謎)については、「障子堀の主機能は井戸(水溜)の代わりか?」、「切岸の残土はその麓の曲輪の盛土の可能性?」「堀は掘削しながら階段を造り土を運び出す?」等を指摘されました。
 その上で、今回の発掘調査に城郭研究者の立場で参加したのは山本さんご本人だけで、馬出しの構造、役割などを考古の専門家にアドバイスしたと言い「これからの研究は他の分野と一緒にやるほうがいい。縄張り研究は考古学に押され気味に感じるが、縄張り研究がなければ遺構の有無、判断が分からず発掘することはできない。考古学の人たちは出土した遺物しか評価しない。そこに縄張りのスペシャリストが入って評価しなければならないと感じた。これからの城郭研究はそういう方向で進んでいくのが正しいと痛感させられた」とまとめられました。

❷繁田さんは仕事で約1年4カ月間にわたって短期赴任したインドの「マハーラーシュトラ州の城館」について発表しました。同州はインドの中西部に位置し、そのほとんどはデカン高原上にあり、面積は約30万平方キロメートル。デカン高原は北側のヴィンディヤ山脈と東西のガーツ山脈によってインドを縮小したような三角形に構成される。標高は300メートル〜600メートルで気候的には亜熱帯から熱帯に属して雨季と乾季がある。
 発表ではインド史の概略を示した上で、城館の呼び方、立地条件や用途といった区分、ネットワーク、マウリア朝の宰相カウティリヤが編纂したといわれる帝王学の書『アルタシャーストラ』およびマラーター王国の王シヴァージーの側近ラームチャンドラが執筆した政治原則に関する文献『アドニャパトラ』の城郭に関する記載について説明してマハーラーシュトラ州の城館を縄張図および写真と共に紹介しました。
 その上で「先行研究や文献を通じてマハーラーシュトラの城郭研究の全体像を把握しつつ現地で調査をすることで、構造や立地の特徴、地域社会との関わりなど、多角的な視点から考察を深め、各城館がどのような歴史的背景のもとで築かれ、時代ごとの役割がどのように変化してきたのかを紐解くことは大きな課題の一つ」としました。

❸望月さんは、『静岡県の城跡』中世城郭縄張図集成(東部・伊豆国版)の編集・発刊に向けた踏査の成果から「修善寺城の再評価」をテーマに発表しました。修善寺城に関する調査・研究の歩み、踏査で得られた縄張りに関する新知見、現存する遺構・史料から考える修善寺城の歴史的性格などについて報告しました。
 縄張りに関する新知見については踏査の結果、北曲輪群で堀切(状遺構)を3カ所発見。いずれも幅約8〜10メートル、深さ50〜60センチメートルで堀切にしては浅く、後世の畑作などで埋められた可能性もあるとした一方、堀切とした場合、いつ築かれたものなのか、築城の時期を含めて歴史的性格を検討しました。
 築城時期については、南北朝時代の畠山国清の乱の際に城郭として取り立てられ、15世紀末の戦国時代初頭に伊勢宗瑞が伊豆に侵攻してきたとき、それに対抗する狩野氏の城として機能した説を示しました。宗瑞配下の大見三人衆が拠る柏久保城に対する狩野氏側の前線基地となった可能性が高く、「狩野氏の有力な支城として約5年間にわたり宗瑞側の攻撃を凌ぎ、その際に曲輪や堀切などの設備が築かれたのではないか」「新たに発見した堀切については今後も検証が必要だが、北の方から攻めてくる軍勢から守る機能があったのではないか」と考察しました。
 その上で、修善寺城は後世の開発による遺構の破壊・改変が著しく、わずかに残る遺構の丁寧な調査や発掘調査などにより、往時の城の姿を明らかにする必要があると指摘しました。

❹直近の調査結果をレポートする対談では、森本勝巳さん(岐阜県在住)が浜松市佐久間町と愛知県東栄町の境で発見した(仮称)名倉城、『静岡県の城跡』中世城郭縄張図集成(東部・伊豆国版)の編集・発刊に向けて調査チームが踏査した伊豆市の高谷城と丸山城、伊豆の国市の金山城と修善寺城について意見を交換しました。
 (仮称)名倉城については顧問の乘松稔さんが、自身で書き起こした縄張図を示しながら立地や構造、築城主体を説明。同行または後日踏査した会員も交えて現地の状況を伝えました。
 このうち、高谷城については開墾による変化が著しく、巨大な堀切は遮断のために築かれたと考えられるが、どこまでが城域でどこを守ろうとしているのか明確でない一方、支配していた富永氏は水軍であり「城という陸上の防御施設にこだわりがなかったのではないか」、「富永氏の所領を考えるともう少しエリアが限定されるのではないか」などの意見がありました。同じく富永氏の丸山城についても「出丸の背後の内陸に本城があるといわれているが畑の開墾でつかみ所がない」といった感想が寄せられました。会長の望月さんは「伊豆の西海岸については今後も調査を続けていくが、判断が難しい城郭が多い」「金山城も修善寺城と同じく目立つ城ではあるが、今ひとつ注目されてこなかったので近辺を含めた踏査が必要」とし、「赤色立体図なども用いて今後も踏査を続けていくので助言をお願いしたい」と呼び掛けました。(報告者:金剌信行)

最終更新日:2025-08-07