去る7月21日(日)、令和6年度定期総会に続いて研究成果発表会「第29回ふじのくに山城セミナー」を静岡市清水区島崎町の東部勤労者福祉センター(清水テルサ)で開催しました。三島市教育委員会文化財課の寺田光一郎さんが特別講演したほか、会員の鈴木晃太朗さん、小城小次郎さんこと佐藤友男さん、会長の望月保宏さんが発表。会員や一般参加者など合わせて45人が耳を傾けました。最後に名誉顧問の水野茂さんが講評。発表を評価していただくとともに、さらなる研究の推進に向けて激励の言葉もいただきました。望月さんの発表については機関誌『古城』第67号、佐藤さんの発表については同じく第66号に詳しく掲載されているのでご覧ください。
❶寺田光一郎さんのテーマは「山中城跡の再整備と災害復旧〜次世代に引き継ぐために〜」。国指定史跡「山中城」(三島市山中新田)の概要やこれまでの発掘調査の成果、台風や長雨による被害と修復、自然環境を原因とする劣化と再整備、日頃のメンテナンスなどを説明しました。以前は雨が降っても1週間程度で水が浸透・排水していましたが、ここ10年ぐらいは雨の降り方が変わり、排水しきれず法面の崩落など大きな被害が発生。行政機関の学芸員として、史跡を保全し引き継ぐために取り組んでいる維持管理方法等を紹介しました。
前提として、発掘された堀や斜面を放置すると赤土が干からびて崩落してしまうことから、その上に土をかぶせて芝を張った層で保護していることを説明。台風などで発生した被害は保護層が崩れたものであり、その下の遺構自体は無事であることを強調しました。
霜の凍結と融解、人が登ることによる人為的な劣化などで被害が発生して再整備を実施。中でも令和元年10月12日未明から13日までの台風19号、令和3年7月3日未明の長雨で遺構の保護層が崩落する大きな被害が発生しました。このままでは同じことの繰り返しになるので、文化財関連法に適応しつつ排水施設を整備していく必要性を示しました。
併せて、法面の土砂の入れ替え、張芝、樹木管理、草刈りなどのメンテナンスも紹介。その上で「日本一美しい山城を目指し、皆さんと一緒に守り、素晴らしい遺構を次世代に引き継ぎたいので協力をお願いします」と呼び掛けました。
❷鈴木晃太朗さんのテーマは「中世城館における座観式庭園の眺望域と方位観―戦国大名と“月”の嗜好―」。京の東山文化が地方に伝播し、中国の禅を背景とする高度な文芸活動が活発化する中、文芸行事の会場として使われる遊興施設において、庭園が建物に対して東南域に設けられる傾向に着目。東から昇り南中した後に西へ下る月の天体運行の特質を踏まえた上で眺望域を考慮した際、庭園の構成要素に月が含まれる可能性を指摘しました。その上で、「庭園の鑑賞施設でもあった会所などの遊興施設が庭園それ自体に限らず、庭園との一体性を踏まえた上で月を観賞する借景の意図も有していた」と仮説。地方における文芸活動の中心拠点として機能する守護館および国人領主館内の遊興施設遺構・庭園遺構を資料とし、眺望域の方位と月を背景とする景観との関連性を追求しました。
18例の城館を分析し、東方軸類の出端指向型と南方軸類の南中指向型に分類。「出端指向型は将軍義政の趣味趣向を組み込んだ様式でありトレンド性を重視、南中指向型は平安王朝期の伝統性を意図しており室町殿の基本構想を模したクラシック性を重視した」と考察しました。
❸佐藤友男さんのテーマは「愛宕山城の年代観―最終形態における築城主体を考える―」。静岡市街に良好な遺構を残しながら、その来歴が謎に包まれている愛宕山城(葵区沓谷)について、主な記録や記述、縄張り、発掘調査結果、武田氏・徳川氏の動向などから年代観や築城主体を考察しました。
城としてどのように動いていたのかを記録した書物はないため、江戸時代の地誌類を検討。『駿河記』『駿國雑志』『駿河志料』『甲陽軍鑑』『家忠日記』の記録を検証しました。併せて、当会が平成24年に発刊した『静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成』の記述にも着目し、「これまで単に今川系城郭と考えられていたが、縄張り研究により武田や徳川の時代でなればおかしいと言えるようになった」と城郭史研究の進歩にも触れました。縄張りについては、屈曲して枡形状の空間を入っていく非常に幅の広い堂々たる大手口をはじめ、明瞭な虎口や明快な堀切、北東方向への意識を指摘。平成3年の発掘調査の結果、武田・徳川の動向なども踏まえ、「徳川家康が穴山氏への備え、かつまた天正壬午の乱における万一の備えとして、天正10年(1582)年以降、かつ徳川家康が駿府を離れる天正18年までの間に愛宕山城が整備されたのではなかろうか」としました。
➍望月保宏さんのテーマは「三島市 河原ヶ谷城の縄張りについて―開発で埋もれた城郭遺構を推理する―」。一部を除き遺構の大半が消滅して不明となっている河原ヶ谷城(三島市加茂川町)の構造を、わずかに残る遺構や史資料などにより、主に室町期(15世紀後半)・戦国期(16世紀後半)の2時期の使用を推理した上で推定の縄張図も示しました。
城は箱根山西麓、箱根外輪山より三島市街地方面に向かって伸びる尾根の末端、平安・鎌倉古道の出入り口近くに位置。史資料から▽室町時代には城郭の構えを呈していた▽15世紀末に伊勢宗瑞が伊豆に侵攻した際、永禄12年(1569)〜元亀元年(1570)ごろに武田信玄が東駿河・北伊豆へ侵攻した際に一時攻略された可能性がある▽第二次甲相合戦の際の天正8年(1580)から翌年にかけて北条氏政・氏直父子が本陣を構えた可能性が高い―と読み解きました。残存する遺構からは、南部の成願寺周辺の曲輪と古道を隔てた北側の曲輪(本曲輪か)が室町時代当初から存在し、大堀切を隔てた東海道線北側の字「城山」南部の曲輪および新幹線北側の「城山」北部の曲輪が戦国時代に整備され、現在天神社のある「出丸」と合わせ、北条氏当主の陣城として相当な規模を有していたとし、本曲輪、南曲輪、二ノ曲輪、三ノ曲輪の連郭式構造を推定しました。
まとめとして、都市化や開発、住民の世代交代により、「土地の記憶」が次第に消滅していることを指摘し、「せめて記録に残し、後世に伝えていく必要がある」と訴えました。
(報告者:金剌信行)