晩秋恒例の一泊二日見学会のご案内です。昨年、一昨年と大好評をいただいた「関ケ原合戦シリーズ」の第3弾になります。東西両軍の陣所を巡った第1弾。勝敗のキーマンたちの山上の陣所を現地検証した第2弾。そして今回は「周辺の遺構を探る」というテーマで、菩提山城、玉城など関ケ原近辺の城郭を巡り、関ケ原合戦の真実を側面から多角的に検証していきたいと思います。ぜひ皆様のご参加、お待ちしております!
実施日:令和8年11月21・22日(土・日)
見学地:菩提山城、長宗我部盛親陣所、玉城 他
担当者:大木理事、繁田理事
参加費:会員27,000円、非会員29,000円
宿泊地:くれたけインプレミアム大垣駅前
岐阜県大垣市高屋町3丁目46 (TEL.0584-82-3411)
バ ス:市沢さんのバス
脚力レベル:★★★☆☆(3)
申込メール:s-kojouken@outlook.com ←クリック後、必要事項をご記入のうえ、ご送信ください。
申込締切:令和8年11月14日(土)。但し、定員になり次第締め切りますので、お早めにお申し込みください。
※申し込み後のキャンセルは、5日前30%、前日50%、当日100%の負担となりますのでご注意ください。
定 員:25名
身支度:ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)、弁当、飲物類
☆悪天候時、当日午前6時の時点で中止を知らせます。
☆のろし第346号PDF
【菩提山城】(岐阜県不破郡垂井町)
美濃国守護・土岐氏の家臣・岩出氏により築かれましたが、永禄元年(1558)美濃国大野郡大御堂城主の竹中重元(しげちか)がこれを攻め奪取し居城としました。竹中氏は菩提山城の麓の岩出や関ヶ原など約5千石の領地をもつ国衆でした。永禄5年(1562)病死した竹中重元の後を継いだのが有名な竹中半兵衛重治(当時19歳)ですが、半兵衛重治が城主であった時期は永禄7年(1564)までの2年間だけです。その後の城主は、家督を継いだ弟の久作重矩。重矩が天正10年(1582)に戦死すると、従兄弟の重利が後見役として継ぎ、半兵衛重治の子・重門が名実ともに城主となったのは文禄3年(1594)頃と考えられます。竹中重門は関ヶ原合戦当時、西軍に属し犬山城を守備していましたが、9月3日に東軍に降り、幼い頃に竹中家で匿われていた黒田長政軍と合流、菩提山城を東軍に提供しました。その結果、西軍・大谷吉継に与力として同行していた平塚為広は、領地の垂井を不在のうちに東軍に制圧されます。一方、伊勢の制圧を終えた西軍・毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊らは、大垣城の後詰のために転進し、9月7日に南宮山に布陣しました。しかし東山道を挟んだ菩提山城と垂井は東軍に制圧されており、南宮山の一番先端にいた吉川広家軍とは約5km足らずの菩提山城と睨み合う状況となりました。こうして西軍は、東山道の封鎖が出来ませんでした。関ヶ原合戦前日の9月14日夜半、赤坂周辺にいた東軍主力である福島正則らは、東山道の垂井を通過し、関ヶ原に布陣しました。
菩提山城は国衆の城としてはかなりスケールの大きい山城です。歴史的背景を踏まえつつ、ご自身の目で遺構を確認し、歴史の謎を推理しては如何でしょうか。
【長宗我部盛親陣所跡(南宮山・栗原山)】(岐阜県不破郡垂井町)
南宮山の中腹東側にある牧田の清水寺(せいすいじ)から南宮山塊を登ると、栗原九十九坊跡という大規模な寺院群跡があります。建武2年(1335年)に足利氏と新田氏との戦いで寺院は焼失したと伝わります。大永5年(1525)、近江国小谷城の浅井亮政(浅井長政の祖父)が京極氏の勢力を抑え、伊勢方面に向けて遠征してきました。これを美濃国守護・土岐頼芸(よりのり)が、この栗原九十九坊跡の山頂の牧田に陣を構え迎撃したと伝わり、その陣地と伝えられる曲輪が残っています。この戦いで、美濃の国人・稲葉通利(みちのり)と息子5名が全員討死したため、稲葉家を10歳の末子が継ぎました。これが、後に西美濃三人衆で知られる稲葉一鉄(良通。よしみち)です。この時から九十九房跡が戦略上の拠点として認識されていたことが窺えます。なお、永禄7年(1564)、岐阜城奪取をしたあと隠居した竹中半兵衛重治は、一説には母の実家のあるこの九十九房跡に蟄居したと伝わります。そして慶長5年(1600)9月7日に、この山頂の牧田山に陣を構えたのが、長宗我部盛親です。四国を統一した父・元親は、関ヶ原合戦の前年の慶長4年(1599)に急逝します。その後、25歳と若年の四男・盛親が家督を継いだため、長宗我部家は不安定な状況でした、関ヶ原合戦の直前に大坂にいた長宗我部盛親は、徳川家康に味方することを伝える使者を江戸に派遣するも、西軍が各関所を厳重に固めていたため戻ってきてしまい、そのまま西軍に従い、毛利軍と共に伊勢に派遣され、その後に南宮山の牧田山に陣を張りました。山頂の陣所も、南宮山の毛利家の陣所と比べると広く、また牧田の陣跡や九十九坊跡が陣地として利用されたことが想像できると思います。優れた陣所にいたはずの6千人の大軍は、東西決戦に大きく影響を発揮できる兵力のはずでしたが、西軍が負けたことを知った長宗我部軍は何も出来ないまま土佐に撤退しました。
【玉城】(岐阜県不破郡関ヶ原町)
南北朝時代に清和源氏の流れをくむ佐竹義春が足利尊氏に追われた際に砦を築いたと伝えられています。また、戦国時代は竹中氏の家臣・杉山内蔵助が在城した、とも伝えらえていますがが、詳しいことが良く分からない謎の城です。集落や街道との結びつきもよく分かりませんが、近江との国境を監視できる場所にありますが、曲輪は広く、監視するだけの規模ではありません。
近年、関ヶ原合戦の際に、西軍大将の毛利輝元や、豊臣秀頼の本陣とするために改修されたという説がテレビなどでも紹介され話題になりました。昨年や今年の宿泊見学会で、関ヶ原合戦を巡るいくつかの山上の陣所と見比べてみて、玉城を考察してみてはいかがでしょうか。
長宗我部盛親陣跡 縄張図(垂井町 南宮山陣城散策マップより)