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のろし第341号 第284回見学会『西多摩の国衆の城と“村の城”』(1月18日開催)ご案内

令和8年1月開催見学会のご案内です!舞台は東京都あきる野市と八王子市。武蔵国西多摩地域の国衆の城と推定される戸倉城・初沢(椚田)城と、「 村の城」ではないかといわれる網代城の構造を比較し、3城の縄張りから読み取れる時代背景・築城主体等について、15世紀後半〜 16 世紀後半の武蔵多摩地方の争乱(享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱、北条氏と両上杉氏・上杉謙信との抗争)との関係性も絡めながら考察していきます。 今回も大変興味深いテーマとなっておりますので、会員はじめ非会員の方もぜひご参加ください!


実施日:令和8年1月18日(日)
見学地:戸倉城・網代城(あきる野市)、初沢(椚田)城(八王子市)
担当者:望月保宏会長、金刺信行副会長
参加費:会員6,000円、非会員7,000円
バ ス:市沢さんのバス
脚力レベル:★★★★☆(4)      
申込メール:s-kojouken@outlook.com ←クリック後、必要事項をご記入のうえ、ご送信ください。
申込締切:令和8年1月15日(水)。但し、定員になり次第締め切りますので、お早めにお申し込みください。
定 員:28名  
身支度:ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)、弁当、飲物類
☆悪天候時、当日午前6時の時点で中止または延期を決定して申込者に知らせます。悪天候でも決行する場合(積雪等で東名高速道路が通行不能の場合など)は、 沼津市の長浜城、三津城、三津新城などの見学に変更する。


☆のろし第341号PDF

 

行 程

   
8:00    JR 静岡駅北口集合、バス出発 
8:15  日本平久能山スマートIC → 東名高速道路 
8:40  富士川SA 
9:10〜 9:20   足柄SA(トイレ休憩) ー(東名高速道路→圏央道 あきる野IC) 
10:45    JR 五日市線武蔵五日市駅(関東方面からの参加者合流) 
11:00〜12:30    戸倉城見学(西戸倉バス停→戸倉城→十里木駐車場)、昼食 
13:30〜14:30    網代城見学 
15:00〜16:00   初沢(椚田)城見学 
16:15    JR 中央線高尾駅(関東方面からの参加者解散) ー(高尾山IC 圏央道→東名高速道路) 
18:00〜18:10   足柄SA(トイレ休憩) 
18:40  富士川SA 
19:05   日本平久能山スマートIC 
19:20    JR 静岡駅到着 
 

見学先概要


【戸倉城】 
あきる野市戸倉の五日市盆地を眼下に望む山頂に、室町時代から戦国時代にかけて築かれた山城である。15世紀頃に武州南一揆(秋川谷から南多摩地域にかけての農村の武士集団)の一員として秋川谷に君臨した小宮氏が居城したとの伝承もあるが、築城・城主などは全く不明である。その後、天文15年(1546)頃、北条氏康の次男氏照が大石氏の名跡を継いで滝山城主となると、大石定久は戸倉に隠居したと伝えられている。このことから戸倉城は、大石定久隠居城とも呼ばれている。 北条氏照が滝山城を拠点にして甲斐の武田氏と対峙するようになると、檜原城が甲州口の押さえとなり、戸倉城は網代の城山・高月城を経て、滝山城や八王子城へと入ってくる情報を中継する機能をもつ城へとなっていったと考えられている。天正18年(1590)、八王子城の落城とともに廃城となった。 城跡は今のところ発掘調査はなされていないが、桝形・虎口・竪堀などの遺構の跡が地表面からでも確認することができる。 

【網代城】 
15 世紀中頃、農山村の地侍たちは農山村民らの指導者として各地に村単位の自衛権力を保持し、「南一揆」と呼ぶ武装集団を成立させていた。網代城は、そうした者たちによって利用されていたと考えられている。この様な小規模な山城は村人らの逃散の場としても使用されていた。 16 世紀中頃、八王子の滝山城に入城した戦国武将北条氏照により南一揆は解体し、網代城は滝山城の支城として再び役目を果たしたと考えられている。 城跡の遺構は、主郭以外に明確に曲輪とすべきものはなく、堀切も小さく稜線に対する遮断の備えとしては弱い。北西側に小削平地が連続する部分があるが、論理的な防禦意図を読み取ることができず、その他虎口や横矢掛りといった技巧についても見るべきものはない。全体的に土木量が小さく自然地形への依存度が高い山城である。 

【初沢(椚田)城】 
標高294m、比高差100m程の山城である。構造的には、北西から南東にかけて走る尾根山稜に築かれた主郭部と、そこから北東へ張り出す支尾根に築かれた出城部分からなる。主郭部では、尾根の左右に掘切の跡も確認されている。  築城年代などは詳らかではないが、築城の方法から15世紀末頃の年代が考えられている。築城主に関しては、鎌倉時代に片倉城に在城していた高乗寺開祖の長井氏によって築城されたとも伝わるが諸説ある。『新編武蔵風土記稿』によれば、鎌倉幕府初期の御家人で武蔵七党の横山党の一族・椚田氏の居城と推測されている。 また同城は永正元年(1504)、扇谷上杉軍が山内上杉軍を破った立河原の戦いの際、落城した扇谷上杉方の「椚田塁」に比定される。16世紀後半、小田原北条氏時代には八王子城の出城の一つとされ、天正18年(1590)の豊臣秀吉による八王子城攻めの際に初沢城も落城、廃城となった。

最終更新日:2025-12-22