【岐阜関ケ原古戦場記念館】
令和2年(2020)10月に開館。関ケ原の戦いの歴史を伝え、関ケ原古戦場の魅力を発信することにより、関ケ原古戦場を中心とした広域観光の推進を図り、地域の発展に寄与することを目的とする施設で、関ケ原の戦いでの徳川家康最後の陣地の跡地近くに設けられている。館長は戦国時代に関する研究で知られる歴史学者の小和田哲男(当会名誉顧問)、アンバサダーとして女優の竹下景子が就任している。同館に展示してある関ヶ原合戦図屏風、武具、出土品、書簡などは、元々は関ケ原町歴史民俗資料館(岐阜関ケ原古戦場記念館の開館に合わせ関ケ原町歴史民俗学習館に改称)に展示されていたものを移したものである。開館当初は関ケ原の戦いなどに関する記念館(体験施設)であったが、令和7年(2025年)6月11日に博物館法第11条に基づく博物館として岐阜県より登録された。
【桃配山(徳川家康最初の陣跡)】
徳川家康が合戦当日の9月15日午前6時頃に布陣したとされる場所。もとは672年の壬申の乱の際に大海人皇子(後の天武天皇)が、同地で兵士に山桃を配った縁起の良い地とされる。
【松平忠吉・井伊直政陣跡】
家康の四男松平忠吉と舅で後見人の井伊直政は、同地より東軍の先陣に決まっていた福島正則の陣の前を横切り西軍の宇喜多秀家の陣に発砲し、合戦が始まったといわれる。
【大谷吉継陣跡・墓】
石田三成の盟友であった大谷吉継は、9月3日、東山道を見下ろし松尾山を正面に望む山中の同地に陣を構えた。松尾山の小早川秀秋が西軍から東軍に寝返った際はこれを迎え撃ち奮戦するも敗退。側近の湯浅五助に介錯を命じ自害した。
【宇喜多秀家陣跡、小西行長陣跡】
西軍の主力であった宇喜多秀家、キリシタン大名の小西行長は石田三成を助け東軍の諸将と激戦を展開するが、小早川秀秋の寝返りもあって敗北。小西行長は処刑され、宇喜多秀家は逃亡の後捕縛され、八丈島に流罪となった。
【島津義弘陣跡】
薩摩の大名島津義弘は西軍に加わったものの、開戦後も自陣より動かず、西軍敗北を見届けると敵中を突破し(島津の退き口)、多くの犠牲を払いながらも国元の薩摩に帰国する。
【石田三成陣跡(笹尾山)】
西軍の中心的存在であった石田三成は、関ケ原の地を一望でき北国街道も押さえられる同地に布陣。重臣の島左近らの隊が善戦するも次第に押し込まれ、小早川秀秋の東軍寝返りを機に敗北に追い込まれる。三成は伊吹山方面に逃走後捕らえられ、京都六条河原で処刑された。
【黒田長政・竹中重門陣跡(岡山烽火台)】
黒田長政と、彼が竹中家に匿われた時以来の幼馴染であった竹中重門は東軍に属し、関ケ原を一望できる同地に布陣し、開戦の烽火も同地より上がったとされる。
【陣場野公園(徳川家康最後の陣跡)】
家康は合戦当日の15日午前11時頃、桃配山から三成の本陣である笹尾山の正面である同地に本陣を移したとされる。合戦後は同地(床几場)で首実検が行われた。