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のろし第337号 第281回見学会『天正壬午の乱と韮崎の城』(5月11日開催)ご案内

 令和6年度 本会最後の事業となります第281回見学会は、天正壬午の乱ー若神子対陣・徳川編ー『韮崎の城』をテーマとし、山梨県韮崎市を訪ねます。
天正10年6月の「本能寺の変」後に、北条氏と徳川氏の間で勃発した抗争、いわゆる“天正壬午の乱”について、武田氏の旧領である甲斐・信濃の覇権をめぐり、北条方の布陣した城をテーマとした昨年の見学会に続き、今回は徳川方の布陣した白山城、新府城、能見城防塁の遺構を見学します。会員はじめ、非会員の皆様のご参加をお待ちしております!

 

●実施日    令和7年5月11日(日)
●見学地    白山城・新府城・能見城防塁(いずれも山梨県韮崎市)
●担当者    望月徹事務局長、大木一幸理事
●参加費    会員6,000円、非会員7,000円
●バス      市沢さんのバス
●脚力レベル  ★★★☆☆(3)
●申込先     s-kojouken@outlook.com
●申込締切   令和7年5月7日(水)※但し、定員になり次第締め切ります 
●身支度    ハイキング程度の服装(滑りにくい靴・雨具)・弁当、飲物類
●雨天決行   悪天候の場合は、午前6時に中止または延期を判断し、お知らせします

●日程
   8:00 JR静岡駅北口集合、バス出発 ※今回の乗降場所は、静岡駅北口のみ
   8:15 日本平久能山スマートIC → 東名高速道路
   8:30 清水JCT→中部横断自動車道
   9:15〜9:25 増穂PA(トイレ休憩)
   9:35 双葉JCT→中央自動車道→韮崎IC
  10:00 武田八幡宮(韮崎市神山町)駐車場着
  10:15〜11:15 白山城見学
  11:30 新府城駐車場着
  11:45〜13:30 新府城見学(昼食)
  13:40 JR穴山駅駐車場着(トイレあり)
  13:50〜15:20 能見城防塁見学
  15:30 JR穴山駅駐車場出発(トイレあり)
  15:45〜16:15 韮崎市民俗資料館(韮崎市藤井町南下条786-3)
  16:30 中央自動車道韮崎IC→双葉JCT→中部横断自動車道
  16:50〜17:00 増穂PA(トイレ休憩)
  18:00 東名高速道路清水JCT→日本平久能山スマートIC
  18:20 JR静岡駅到着


会報「のろし」第337号PDF
 

見学先概要

【白山城】
『甲斐国志』に拠れば、白山城は「城山」と呼ばれ、甲斐源氏の祖・源清光の子である武田信義が要害として築城したとしている。信義の子である武田信光の子孫・武田信時の系統は巨摩郡武川筋に土着し、戦国期には在郷武士団である武川衆が登場する。『寛政重修諸家譜』によれば、白山城は武川衆の一族である青木氏が領有し、武田信縄から信虎・晴信に仕えた八代信種が「鍋山城」を守備し、これが白山城にあたると考えられ、後に青木氏から別れた山寺氏が領したという。天正壬午の乱において武田遺臣の一部は徳川家康に臣従し、白山城には武川衆の青木氏・山寺氏が配置され、開戦当初は諏訪口の監視、若神子対陣時には徳川軍の本営である新府城の背後を守る役目を担ったと思われる。遺構は白山神社のある標高560mの山頂に築かれており、主郭、角馬出風な構造の北曲輪、枡形虎口など良好な保存状態で残る。

【新府城】
新府城は甲府盆地西部に位置し、八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に立地する平山城。西側は侵食崖で、東に塩川が流れる。標高521mの山頂の本曲輪を中心に、二の曲輪・東の三の曲輪・西の三の曲輪・帯曲輪などにより構成され、丸馬出し・三日月堀・両袖枡形虎口など武田氏特有の防御構造を今に見る事が出来る。本曲輪・二の曲輪は躑躅ヶ崎館の本曲輪・西の曲輪に相当し、規模も同程度であることから政庁機能を持つ施設と考えられる。天正9年(1581年)1月の普請開始から一年足らずで完成し、翌天正10年(1582年)3月には武田氏の滅亡と共に灰燼に帰した数奇な運命の城であるが、同年6月、本能寺の変を発端として三河の徳川家康と相模の北条氏直が“主なき”武田氏旧領の甲斐・信濃の覇権を巡り侵攻。武田氏滅亡により役目を終えたと思われていた新府城は徳川勢の本陣となり、配下の軍勢が能見城など七里岩台上の城砦に布陣し、若神子城(北杜市)を本陣に展開布陣した北条勢と3ヶ月にわたりにらみ合う場となった。

【能見城防塁】
能見城は新府城の支城として天正9年(1581年)に武田氏により築かれた。独立した城というよりも、能見城を含めた防衛ラインの中の主要な防塁と言った方が相応しい。新府城の外郭防衛ラインとなる能見城防塁は、東西幅約2kmの七里岩台地を複雑に屈曲しながら横断しており、数か所の防塁を有する。ただし、この七里岩を分断する長大な防塁については天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、同年6月2日の本能寺の変により空白地帯となった甲斐・信濃の武田遺領を巡り勃発した、いわゆる天正壬午の乱に際して、徳川軍によって築かれた防塁であるとする説もある。『家忠日記』では「新府城」と「新府山」を区別して記しており、この「新府山」が能見城の所在する穴山の小山を指していると考えられている。
七里岩を東西に分断する能見城防塁遺構は七里岩西端に西曲輪跡、能見城西側の住宅地に桝形虎口跡、能見城北側斜面に横堀と横矢枡形、その東側に中曲輪、邪曲輪跡、現在は尾名方神社の鎮座する東曲輪跡(黒駒砦)、七里岩東端を守る堂坂砦跡などを見る事が出来る。

最終更新日:2025-04-23