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のろし第335号 第279回見学会『青梅の城と新発見の城郭遺構』(1月26日開催)ご案内

〈ねらい〉 
 今井城・藤橋城・勝沼城、新発見の「日向和田要害山城」の縄張りから読み取れる時代背景・築城主体等について、15世紀後半〜16世紀後半の武蔵多摩地方の争乱(享徳の乱、長尾景春の乱、長享の乱、北条氏と両上杉氏・上杉謙信との抗争)との関係性も絡めながら考察する。

●実施日  令和7年(2025)1月26日(日)
●見学地  日向和田要害山城、勝沼城、藤橋城、今井城 (いずれも東京都青梅市) 見学地位置図(PDF)
●担当者  望月保宏、稲垣雅一
●参加費  会員6,000円、非会員7,000円
●バ ス  市沢さんのバス

●日 程(予定)
 8:00       JR静岡駅北口集合、バス出発
 8:15               日本平久能山スマートIC → 東名高速道路
 8:40      富士川SA
 9:10〜 9:20   足柄SA(トイレ休憩)
         (東名高速道路→圏央道 日の出IC)
 10:45      JR青梅線宮ノ平駅(関東方面からの参加者合流)
 11:00〜12:30  日向和田要害山城見学、昼食
 13:00〜14:00  勝沼城見学 *バスは勝沼城下の光明寺(またはセブンイレブン)駐車
 14:15〜14:45  藤橋城見学
         (徒歩)  *バスは藤橋城近く(北側の田園地帯)で待機
 15:15〜16:00  今井城見学
 16:15       JR八高線金子駅(関東方面からの参加者解散)
         (青梅IC 圏央道→東名高速道路)
 18:20〜18:30  足柄SA(トイレ休憩)
 19:00           富士川SA
 19:25       日本平久能山スマートIC
 19:40       JR静岡駅到着
*雨天決行、悪天候(積雪等)の場合は、見学地、コースを変更する場合あり

●申込先     こちらから☞ s-kojouken@outlook.com
●締切日      1月22日(水)
●定 員       28名
●脚力レベル   ★★★☆☆(3)
〇悪天候時、午前6時時点で中止または延期を決定して知らせる。悪天候でも決行する場合(積雪等で東名高速道路が通行不能の場合など)は、長浜城、三津城、三津新城などの見学に変更する。

★会報「のろし」第335号PDF

 

見学先概要

【日向和田要害山城】
 令和2年(2020)、田中俊輔氏により発見された城郭遺構である。築城主体・年代等については不明であるが、尾根上に堀切や曲輪状の遺構が見られる。

【勝沼城】
 三田谷(現青梅市域周辺)を勢力範囲とした国衆の三田氏により築かれた、比高約30mの平山城。築城年代は詳らかでないが、鎌倉時代から続く名族三田氏の居城として、16世紀半ば過ぎまで用いられた。永禄6年(1563)三田氏が北条氏照により滅ぼされた後は師岡将景が城主となり、城名も師岡城と改められた。詳しい廃城時期は不明だが、天正18年(1590) 豊臣秀吉による小田原攻めの後に廃城になったと考えられている。
 同城は加治丘陵端の尾根上に占地し、本曲輪を中心に、尾根方面に三の曲輪、丘陵端方面に二の曲輪を配置している。この三郭を取り囲む様に横堀が全周に設けられ、二の曲輪には東面及び南面に馬出しが設けられている。また、二の曲輪及び三の曲輪には折れが設けられており、虎口及び馬出しを守る構造となっている。

【藤橋城】
 江戸時代に記された『武蔵名勝図会』によれば、北条氏照の家臣・平山越前守が居城を構えたとあるが、築城時期等それ以上の経歴は不明である。
 城跡は霞川の南側、河岸段丘の一段高くなった場所の端に存在しており、比高は5mほどである。現存する遺構は、東西約70m×南北約60mの曲輪と付属する腰曲輪、土塁、空堀等であるが、南西側と北東側に隣接する場所にも曲輪が存在したと考えられている。現在は、藤橋城址公園となっている。

【今井城】
 多摩川の北岸、加治丘陵の南辺にあり、入間川の支流、霞川沿いの低地に臨む比高約10mの舌状台地上に築かれており、現在も土塁や空掘が良好な状態で残されている。地元では、この城は今井氏が城主であったと伝えられている。
 城跡からは、発掘調査の際に板碑(青石塔婆)や宝篋印塔等が城跡内西側の土塁の中から打ち捨てられたような状態で発見されている。板碑に刻まれた大永2年(1522)の年号等から、16世紀前半にこの地を治める勢力の交替があったと考えられている。
 現在残る城跡の遺構は、主郭が四方に土塁を巡らした方形館の形状を呈し、その北側・西側に曲輪・土塁・堀が設けられており、16世紀半ば以降に改修されたものと考えられている。遺構の様子から、この改修には戦国大名・北条氏が関わっていた可能性が指摘されているが、改修の目的や廃城時期などは不明である。

 

最終更新日:2024-12-29