【日向和田要害山城】
令和2年(2020)、田中俊輔氏により発見された城郭遺構である。築城主体・年代等については不明であるが、尾根上に堀切や曲輪状の遺構が見られる。
【勝沼城】
三田谷(現青梅市域周辺)を勢力範囲とした国衆の三田氏により築かれた、比高約30mの平山城。築城年代は詳らかでないが、鎌倉時代から続く名族三田氏の居城として、16世紀半ば過ぎまで用いられた。永禄6年(1563)三田氏が北条氏照により滅ぼされた後は師岡将景が城主となり、城名も師岡城と改められた。詳しい廃城時期は不明だが、天正18年(1590) 豊臣秀吉による小田原攻めの後に廃城になったと考えられている。
同城は加治丘陵端の尾根上に占地し、本曲輪を中心に、尾根方面に三の曲輪、丘陵端方面に二の曲輪を配置している。この三郭を取り囲む様に横堀が全周に設けられ、二の曲輪には東面及び南面に馬出しが設けられている。また、二の曲輪及び三の曲輪には折れが設けられており、虎口及び馬出しを守る構造となっている。
【藤橋城】
江戸時代に記された『武蔵名勝図会』によれば、北条氏照の家臣・平山越前守が居城を構えたとあるが、築城時期等それ以上の経歴は不明である。
城跡は霞川の南側、河岸段丘の一段高くなった場所の端に存在しており、比高は5mほどである。現存する遺構は、東西約70m×南北約60mの曲輪と付属する腰曲輪、土塁、空堀等であるが、南西側と北東側に隣接する場所にも曲輪が存在したと考えられている。現在は、藤橋城址公園となっている。
【今井城】
多摩川の北岸、加治丘陵の南辺にあり、入間川の支流、霞川沿いの低地に臨む比高約10mの舌状台地上に築かれており、現在も土塁や空掘が良好な状態で残されている。地元では、この城は今井氏が城主であったと伝えられている。
城跡からは、発掘調査の際に板碑(青石塔婆)や宝篋印塔等が城跡内西側の土塁の中から打ち捨てられたような状態で発見されている。板碑に刻まれた大永2年(1522)の年号等から、16世紀前半にこの地を治める勢力の交替があったと考えられている。
現在残る城跡の遺構は、主郭が四方に土塁を巡らした方形館の形状を呈し、その北側・西側に曲輪・土塁・堀が設けられており、16世紀半ば以降に改修されたものと考えられている。遺構の様子から、この改修には戦国大名・北条氏が関わっていた可能性が指摘されているが、改修の目的や廃城時期などは不明である。